したくないなら断ればいい?言葉と権力について

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こんにちは。
今回は、今読んでいる三木那由他さんの『言葉の展望台』をベースに書いていきます。

言葉とコミュニケーションについて、哲学の分野から研究されている著者。
丁寧に、緻密に言葉について考えていく姿勢が心理士としてもとても興味深いと思いました。

いきなりですが、「言葉」の役割や意味とは、何だと思いますか?
例えば、通常のカウンセリングでは当たり前に言葉を中心に扱うのですが、相談に来られた方から発せられた言葉というのは、それが本当に実際にあったことなのかは正直わかりません。でも、その人の目を通して、実際にあったこと、感じられたこと、その時伝えたいこと、ということで、私たち心理士は信じて、話を聴いていくと思います。

つまり、現実かどうかは置いておいて、自分が経験したことを他者に伝えるとき、それを媒介するのが言葉、ということですね。

今までの哲学者による言語観というのは、ゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインらによって、1900年代初頭に作り上げられてきたものがあるようです。
そこでは、言葉は世界を写し取る像のように考えられていました。

この言語観では、さまざまな文が焦点を正しく写し取っているか否か、あるいはそもそも世界を写し取るのに適した本物の文になっているか否かに焦点が当てられることになる。

それに対して、世界を描写するのは言葉ができることの一つに過ぎない、もっとたくさんのことをしていると言ったのが、ジョン・L・オースティンです。

例えば本にも出てきた例ですが、カフェに行って飲み物に砂糖をいれたいとき。
「お砂糖ありますか?」と言うことがあります。

でも、言葉の通りに、「お店に砂糖があるかどうか」を聞いているのではありません。
お店には砂糖があるだろうから、それを持ってきてほしい、という依頼の意味で言っています。

じゃあ「砂糖をください」と言えばいいのですが、なぜか少し遠回りに聞いてしまうことって、ありますよね。

このように、言葉はその言葉自体よりも多くの意味や機能が付加されているときがあります。

ここ数年、「マンスプレイニング」という言葉を聞くようになりました。男性の「man」と、説明するという「explain」をつなげた言葉で、レベッカ・ソルニットの『説明したがる男たち』から(実際にはウェブ記事から?)登場したようです。

男性が説明できもしないことをしたがったり、人の話を聞かないような場合に使われます。
この現象の何が問題なのか?ということについて、本書では書かれています。

それは単に不愉快なだけではない。それは、それが向けられる人物が無知な存在であると想定するよう会話参加者たちに促す行為なのだ。しかもそれは、その人物が実際に無知であるかどうかとは関係なく効力を発揮する。聞き手が無知だからマンスプレイニングがなされるのではない。マンスプレイニングがなされることで、聞き手が「無知な者」の位置に押し込められるのである。

読んでいて、なんと恐ろしい、と思いました。

三木さんはこのことについて、特に「女性は無知だ」といったステレオタイプが背後にある場合、そのステレオタイプを強化することから、不愉快を通り越して、「具体的な害」だと言っています。

私はいままで、「マンスプレイニング」ってあるんだ。男性が女性に説明したがることなんだ、それってよくあるかもなあ、なんてのんきに考えていました。

でも、言葉やその行為によって、誰かを強制的に特定の立場に置く。それもマイナスとなる立場におく。そこには力、権力が働いてるし、怖いことなんだ、ということに気づきました。

「女の子は無知なくらいがいい」「男には説明させて気持ちよくさせてあげたらいい」
古くはそんなことが言われていたかもしれません。でも、だんだんと女性も男性も違和感に気づき始めています。

「説明させてあげる」ことで手のひらで転がしているようで、やっぱり実際には、権力を持っているのは説明している側、自分を無知な側に押し込んでいる人でしょう。

そのようなことが具体的に、わかりやすく書かれている本でした。

日本は察する社会とも言われますが、言葉とそれが発せられる状況から自分が取るべき(と考えられる)行動を察することは、日常生活に多々あると思います。
例えば、上司と部下の関係で、終業後の予定がないことがお互いにわかっている状況で、食事に行く誘いを断るというような場合を考えてみます。
上司が「ご飯行こうよ、予定ないんでしょ?」、と言うが、部下はあまり乗り気ではない。
しかし、部下はここで断ったら相手を傷つけてしまうかもしれないと思い、「うーん、1時間くらいなら・・・」と応じてしまう。これまでにその上司が、誘いを断った同僚について悪く言っているのを聞いていたりすると、ますます断れない。

上司は「強制力はなかった」「向こうは乗り気だった」「自由意志だった」と思っているかもしれない。でも誘われた部下は「断れる雰囲気じゃなかった」「半ば強制だった」と感じているかもしれない。

でも客観的な言葉だけを聞くと、確かに上司は強制はしていないんですよね。
このコミュニケーションにおいて、強者なのは上司で、それは曖昧な言葉においてもそうである。というのも、意識的には思っていなかったとしても、ここで断ってこないだろう、と思いながら、相手に判断を委ねているような曖昧な言葉で、「断ってくれたらよかったのに」と後から何とでも言い逃れはできそうです。

行きたくないなら断ればよかった。
日々のコミュニケーションって、そんなに単純じゃない場合も多いですよね。

言葉には言葉そのものよりも多くの意味や行為が含まれている。
この本を読むと、「断れなかった自分が悪いんだ」と自分を責める気持ちが、少し軽くなるかもしれません。
(著者の専門が分析哲学なので、ちょっと難しい部分もあるかもしれませんが…)

一方で、カウンセラーにおいては、自分の立場も理解しながら、自分の発する言葉と状況が意味するものについてもしっかり考えていかないといけないなあと思いました。

興味がある方は、ぜひ一度読んでほしいと思います。


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